数学社会に対する一数学徒からの主な訴え
文化としての役割を果たせていない
AI事情により,今数学界は過渡期を迎えているわけだが,そこで発生している問題の中の多くのものについては,今まで社会全体として何も考えずに進んできたツケが回ってきたとも捉えられる.構造主義の普及により,個人による価値の説明が放棄され,すべての説明が「こうなっている」という後手のものになり,始めからそのものに価値を置いている人しか入れない社会になってしまっている.芸術の諸分野と違い,直感的に印象すら与えることができないものなのだから,本来どういう経緯で価値があるとされているのかという客観的な説明がなされていなくてはならない.「面白い,かっこいい」と思っている人たちのみが集まった社会になってしまっている構図自体がそもそも問題なのである.そんな数学社会に,今に至るまである程度十分にお金が回っていたのはなぜだろうか.今,まさに社会全体から数学社会の価値が問い直されているわけだが,AIによって生まれた論点にのみ注目するのではなく,常識として認知を止めてしまった多くの部分に対して一人一人が改めて問いを立て,取り組むべきではないだろうか.
「伝えること」という本質に回帰すべきである
ゼミをする,講演をする,論文を書く,記事を書くなど様々な行為があるが,その根本はどれも「伝えようとしている」ことにある.本来「伝える」ということに向き合うのは難しい.相手がどのような背景を持っているか,今どのような文脈で話が進んでいるのかを見極め,自分の言おうとしていることが本当にその文脈に乗っているかを精査しなくてはならない.言いたい気持ちに任せ過ぎると,自分の中には既にあるが相手の中には用意できていない価値観の上でしか意味のないことを言ってしまうということはよくある.しかし,皆が同じものを信じているとしたら楽である.それによって,大きな文脈が一つ固定されるため,それは常識を生み,気にすることなしに様々な発言を重ねることができるようになる.実際に,数学社会はその状態を目指した.集合という共通単位による構造化,さらに型理論によるコンピュータへの実装により,数学は既に構造としてそこにあり,それがどのようになっているかを説明することが数学の説明だということになり,「伝える」という行為にそのような型が与えられてしまった.もちろん,新しいことを生み出す瞬間においては,後手からの説明ではない「意志」がそこにあるだろうが,Grothendieckの苦悩にあるように,結局それを今の数学に接続しようとすると,その意志の翻訳が必要なのであり,それに膨大な時間を費やした結果,最初にあった意志はその固定された浅い文脈に乗って伝わり,結果的にその受け取られ方は本人の意図するところではないという自体が起こってしまう.
「慣れるしかない」は本当か
まず大前提,数学において「自ら体験して慣れるしかない」なんていう教育はあってはならない.なぜなら,数学は人がつくってきたものだからである.潜在的には,自然がつくった,神がつくったなどいうことはできるのかもしれないが,少なくとも近代以降は論文によって内容が紡がれてきている.その論文たちというのは人の言葉で書かれている.「慣れるしかない」がまかり通るということは,既にその内容が在るとされているわけだが,一方でそれがなかった時代もある.無から広く普及するまでに至るためには本来とんでもないエネルギーを必要とする.なかった時代から今に至るまで何かがあったのである.そして,それは人の言葉によって集積されている.そして,敬意を表すべき歴史家たちの活動により,我々はそれを知ることができる.構造主義によって常識になってしまった「こういうことになっている,それに慣れろ」という姿勢を客観視し,まず知ろうとすることが本来はできるということを教育は教えるべきではないだろうか.
しかし,そのことで上の世代を責めても仕方がない.なぜなら,皆同じ状況だったからである.皆同じ仕方なさを抱えている.それは時間やお金の問題であり,そのためにノルマ,競争を強いられ,その激しい戦いを勝ち抜いて初めて数学社会においてアイデンティティを獲得できる.だから,それを踏まえば私のここでの発言はすべて馬鹿らしいものになるのかもしれない.しかし,数学社会のあり方自体が問われている段階において,我々の抱えている仕方なさとはいったい何なのだろうか.数学社会の構成要素は実質,人による言葉だけである.そんな数学社会が外によって請け負わされる仕方なさというのは,理想においては存在しない.だから,ここで私の提供する論点は,いつ如何なる時も問い直される価値をもっている.ましてや,AIによる過渡期である今,AIによる表面的な論点だけではなく,今では当たり前になってしまっている様々なことを考え直すべきである.
何をしていけばいいのか
まず,すべての数学をする人が,現状や今まで生きてきた中で当たり前になってしまった柵を認識し,「伝える」という一点においてその柵がどのように邪魔をしているのかを考え,改めて自分の言葉を獲得し直していくことが始まりとなる.そしてそれを伝え合い,対話をし続けることが理想である.少なくとも,それを私はこの場でやり続けようと思っている.既存の数学社会を過信することなく,「解放区」であるこの場で,数学をする,それを伝えるということに向き合った結果を記述し続けたいと思っている.そして,それが既存の数学社会においても遺憾なく価値が発揮されることを信じている.
具体的に何をしていけばいいのか
ひとつ実践法を示す.まずこう問うてみよう.「○○って何がそんなに面白いの?」と.○○には好きな数学の概念や分野名を入れてもらえればよい.このように聞かれた大抵の人は,その内容の説明を始め「その中でこの部分が面白いんだ」と帰着させるだろう.しかし,それに対しても「で,その部分の何がそんなに面白いの?」と同様の問いを投げかけることができる.通常このような問いを重ね続けることは暗黙のうちにマナー違反である.最後には物を投げつけられるかもしれない.しかし,次のように読み替えてみると,それは問いとして取り組むことができるようになる:「○○ってなんで面白いということになっているの?」と.○○に入れる言葉は,その人が知ることなった程に世の中に普及しているのである.それくらいに価値があるということになっている.では,それはどのような経緯でそういうことになったのか?このように問いを言い換えると,受け手と質問者が同じ方向を向くことができ,話が進む.
以降,具体的に○○には代数幾何という言葉を入れて考える.先ほどのように読み替えた上で問いに取り組もうとしてみよう.そうすると,とある事実に気づく.まずそもそも代数幾何という言葉を我々はどのように知るのかと言えば,本屋や図書館に並んでいる本のタイトルや,実際に研究をしている人が多くいることや,大学の授業などがきっかけとなっている.そこで,大学の図書館で代数幾何のコーナーを歩いてみよう.なぜこんなに同じようなタイトルの本が出版され得るのか疑問に思うほどに,たくさんの本がある.その時点で,代数幾何という分野に価値があるとされていることは間違いない.その価値の保障のされ方を把握しようしているわけである.例えるならば,消費者としてはコンビニに売っている食べ物は,コンビニで売っている食べ物であり,買うか買うまいか,食べて美味しいかなどということが自然と考え得ることだが,消費者という立場を一旦抜けて,そもそもどういう経緯でこの食べ物がここに置かれているのかと知ろうとすることはできる.同様に,代数幾何という言葉がどのような経緯で我々の目の前に現れたのかを考えたい .実際に知ろうと,図書館の本を開いていっても,たまたま「Dieudonné, History of Algebraic Geometry」を取らない限り,そこに答えは書いていない.すべての本において,代数幾何に価値があることは前提となっている.それを前提とした上で,どのような構成にしたか,どの話題にフォーカスしたかという特色があるに過ぎない.それは至って当然のことである.学生が効率よく研究に取り組めるようにすることを目的としているのが主であり,その上で形式的な話の組み立て,ページ数の指定など配慮しなくてはいけないことが多い.それ以前に,大前提,代数幾何に興味をもっている人向けに書かれている.だから,「なんで代数幾何に価値があることになっているのか」などいうことをつらつら書き出すことなど暴挙に近い.そんな具合なのである.
では我々は問いに取り組むにあたりどこから始めたらよいのか.我々の取り組みとは「○○の価値の保障のされ方」の把握である.一方,○○という概念がなかった時代というのが存在する.その時代における「○○の価値の保障のされ方」は簡単で,それは「ないのだから価値は存在しない」というのが答えになる.一方,現在では○○は価値があるということになっている.ということは,少なくとも,○○の原点が誕生した瞬間,無から発生した瞬間というのが存在するはずである.それがいつなのか,何がきっかけでどのように生まれたのかを知ることが次の課題となり,話を進めることができる.例えば,「代数幾何という言葉が使われるようになったのはどの論文からか」というのは答えがありそうな問いである.それに当たりがつけられたならば,「そこで代数幾何という言葉はどのような意味で使われているか」を考えることとなり,現代の意味することとどれだけの解離があるのかを考え,間を埋めようとすることで,様々な話題に触れることになるだろう.それは,このような知ろうとする意志なしに,目の前にある情報で満足しているようでは到底出会うことのできない話題たちである.ここで立てたような問いをきっかけとして「如何にして価値が保障されているのか」を知っていくことこそが,現代の都合に捉われない,そのものに対する「客観的な知」となる.そこに必然的に歴史が現れる.
実際にやってみようとすると,かなり根気のいる取り組みであることがわかる.しかし,そのようなことに取り組み続けている人たちがいる.それは敬意を表すべき数学史家の方々であり,様々な作品が出版されている.まずは,それを参考にし,ある程度マップを得てから,自分のきっかけに基づいた取り組むをするとよい.ただし,数学史家の方々は,私の理念とは違う,歴史学的に論点となる様々な課題に取り組むことが主であるため,私の以上の論説をもって数学史家の仕事の説明が成されたという認識は誤りであることに注意する.
ここで紹介した取り組みの先に何があるのか.それについては,ここでの私の今後の活動に期待されたい.
最後に
主題を「訴え」としているが,私はここで主張のような形で書いた内容を訴えているのではなく,このように数学社会において言論は,もっと自由であり,純粋であっていいのではないかということを訴えているだけに過ぎない.